若狭おばまの紹介

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山川登美子(やまかわ とみこ)

明治12年(1879年)7月、現在の千種一丁目旧小浜藩士山川家に生まれました。
大阪・梅花女学校に学ぶころから与謝野鉄幹に師事し雑誌「明星」に投稿。
大阪の鳳晶(のちの与謝野晶子)とは良きライバルとなり、
増田雅子とともに歌集「恋衣」を出版しました。
「我が息を芙蓉の風に例へますな十三弦を一息に切る」など熱い胸中を詠み明治を代表する女流歌人になりましたが、結核を患い、明治42年4月小浜で29歳の生涯を閉じました。病床で詠んだ短歌は歌集にまとめられています。

杉田玄白(すぎた げんぱく)

享保18年(1733年)9月、江戸・小浜藩下屋敷で藩医の子として生まれました。
オランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を手に入れると、小浜藩医中川淳庵らと実際の解剖に立会い日本語へ翻訳する必要性を感じ、安永3年(1774年)、中川淳庵、中津藩医前野良沢と共に「解体新書」を刊行し、西洋医学を日本に紹介しました。

杉田玄白の年収は600両(現在の貨幣価値に換算すると3000万円)あったといわれ、
当時、庶民で高給であったといわれる大工でも平均年収は33両3分程度(現在の貨幣価値に換算すると168万円程度)しか無く、また一般的に当時の漢方医が高額の費用を取らなかったことを考えると極度の守銭奴でした。
「解体新書」を刊行し、後世に残る功績は認めなくてはいけませんが、
現在に続く「医術は算術なり」といわれる医者の悪しき拝金主義の流れを作ったとの批判は免れないとの意見もあります。

梅田雲浜(うめだ うんぴん)

文化12年(1815年)小浜市雲浜で小浜藩家臣の矢部家に生まれました。
後に祖父の実家である梅田姓を名乗り藩校で崎門学を学び、江戸末期、
尊皇攘夷を唱え、尊皇志士の指導者として活動しました。
安政5年(1858年)の「安政の大獄」では、最初の逮捕者となり、
取調べの最中、獄中で病死しました。
また、「妻は病床に臥」という有名な句を残しています。

常高院(じょうこういん)

永禄11年(1568年)信長の妹お市の方と、近江の浅井長政の二女として生まれました。姉は淀君、妹は徳川秀忠の正室で家光の母となった小督の方。
京極高次に嫁し、関ヶ原の合戦では大津城で、高次と共に戦いました。
高次が若狭おばまに転封となった後、大坂夏の陣では、
豊臣方と徳川方の間にたち、和睦につとめました。
寛永7年(1630年)後瀬山西北麓に伽藍を建立し、
凌霄山常高寺と名付けて自ら開墓となり高次の菩提を弔いました。